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その男、薮の彼方に消ゆ

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2012年 06月 14日

この星に、サバ缶のある限り...

学生時代に独り暮らしたぼろ家は、牛込の高台に建つ、文字通りの廃屋だった。その家は薮に囲まれ、夏には蔓草が伸びて壁を覆い、緑の魔境を思わせた。腐って破れ果てた板壁の隙間からは、にょろにょろと何でも入り込んでくる。なめくじ、蔓巻く雑草、げじげじ、そしてねこ。


山道具が散乱したその家には、夕方になると茶色い虎ねこが上がり込んできて、めしをせがんだ。僕は彼に「ちゃいろくん」と名付けた。こいつ、壁の破れ目から入ってくるくせに、でかくて堂々として、食欲旺盛だった。まあ、それだけ板壁の破れが酷かった訳でもある。僕は茶色君には何を喰わせれば良いのかわからなくて、サバの水煮缶を買い置きしておいて、与えていた。与えていたと言っても、汁を少し取っておいて、ドライフードにタラリとかけるのだ。サバそのものは僕の貴重な食料で、飽きることなく、毎日のように味わっていたし、山へも担いで出かけた。


サバの水煮。200g程度の密閉空間に封じ込められた、海の幸。わずか100円程度で手に入る、この惑星の豊穣。

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当時もいまも、在庫を切らしたことがない。そして一度も、まずいと思ったことが無い。くしゅっと音がして缶が開く。ごろっと中身を、皿に載せる。ここで煮汁を飲み干してしまおうか、すこしためらって、やっぱりすする。



理由があるのだ。

煮汁はそれなりに美味なのだが、調味料を薄めてしまう。



調味料?

そう。サバの水煮を堪能するためには、調味料を探求し、吟味し、完全に満足できる仕立てを、組み合わせを手に入れなければならないのだ。


学生時代は、醤油と七味唐辛子だった。これ以外の調味料ラインナップを常時在庫することもできなかったし、また十分満足だったからだ。




ある日。学生街の居酒屋で、サバ缶をいただく機会があった。なんと、大根おろしに刻みネギが添えられていたのだ。海の幸の上に盛られた大地の恵み。辛みと爽やかな風味をまとった、官能的なまでのハーモニー。このとき、サバ缶の味わいには無限の可能性があることを、識る。醤油と七味唐辛子と言う鉄板の組み合わせが、揺らいだのだ。

僕の遍歴が始まった。
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ありとあらゆる調味料や薬味を、サバの水煮に試してみたのだ。しかしそのすべては、とても書くことができない。



■マヨネーズ
サバの魚臭さ、あるいは身の幾分ぱさぱさした食感、これをまとめあげ、包み込むのはマヨネーズに限る。七味や黒こしょう。また白胡椒や柚子胡椒を添えても風味極まり、味わいはこころの奥深くまで響くことだろう。


■ごま油
この破壊力を知ったのは、埼玉・熊谷郊外の荒川河川敷で野宿した時だ。レバ刺しをいただくに塩プラスごま油より強力なタレは無し、と信じていたから試してみたのだ。いまでも記憶によみがえる、また再び味わいたくなる、いのちに刻み付けられたような記憶なのだ。


■キムチタレ
即席キムチのタレをかけてみたことがある。言うなれば脳髄に突き込まれた味覚のハンマー。あるいは魂が叫びを上げるアジアの灼熱。しかし量が過ぎるとサバの風味が失われ、つまりは負けてしまう。ここはやはり自家製のキムチを仕込み、その浸け汁を利用すべき...。こうして試みは「キムチを漬ける」ところから始まり、結果は良好。寒くなると胃の腑が求める、そんな愉しみとなった。


■カレー
カレールー少量を湯に溶かし煮詰め、料理に使うことが多い。フライドポテトと合わせると爆発的な美味さなのだ。この残りをサバ水煮にかけてみた。嗚呼なんという背徳的なまでの味わい。濃厚にして刺激的、いつまでも余韻を響かせるその味わいは、危険な恋に例えたらいいのだろうか。そんな火遊びの経験のない僕にも、ちりりとこころがひりつくような連想をさせてくれた。


■コチジャン
もう何と言うか、好きにしてください、あなたの言うことを聞きます、と舌と胃がすすり泣くような味わいを満喫できる。コチジャンにテンメンジャンをブレンドしたり、もちろん豆板醤を混ぜたり、あるいは魚醤を忍ばせたり、エイジアン系の可能性は無限に広がる。そのむかし、長安から西域への道が、ヒマラヤやカラコルムを巻いてうねって、幾筋も続いたように。


■オリーブオイル
これには、やられた。ガーリックやバジル、オレガノなどの香辛料を加えてオイルに仕立て、垂らしたのだ。瞬間、100円の缶詰からヴェネツィアのラグーナの匂いが、漂いはじめた。あまりのマッチングに僕は段ボールでサバ缶を仕入れ、塩野七生さんの本を読みながらこの組み合わせを楽しんだほどなんだ。


■ポン酢
グレープフルーツとレモンを絞り、だし汁と合わせると自家製ポン酢を作ることができる。一時期これに凝って、当然のごとくサバ缶に試してみた。

あぁ....... ビネガーのちから。なんという奥行き。とおい過去の記憶を呼び覚ますような、懐かしさ。母は水玉のワンピースを着て、バスから降りて来た。祖父母の蜜柑林が広がるその丘に、母は僕を迎えに来た。母の向こうに、水平線。そして真っ青な空に入道雲が...。


■バルサミコ酢
もう、なにも語らない方がいいのかもしれない。眼をつぶれば思い出す。海の香りにぶどうが絡む。遠い航海を終えて、それでも忘れることができない異国の港の美しき一夜の思い出。そんな経験のない僕にまで、船乗りになりたい、と思わせてくれる味わいがそこにある。


■マヨネーズと、チリソース
僕は、過ちを犯した。もう帰ることができない。

"Bohemian Rhapsody" でフレディは歌った。

Mama, Just killed a man, 

つまり、そんな気持ちなんだ。

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by yabukogi | 2012-06-14 22:49 | 喰い物のこと


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