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その男、薮の彼方に消ゆ

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2010年 02月 16日

ある日ジャグジーで

その男、この週末あたり雪の八ヶ岳で幕営ができそうである。
ある土曜日、ぼちぼち準備を整えていて、あ... と絶句する。


男は、ちかくの山道具屋【ブンリン】で買ってきた2本のポール(ストック)を眺めていて、使い方を知らないことに気が付いたのだ。そう。男は、2本のポールを操って歩いたことがないのである。気が付いた男は、蒼ざめたまま立ち上がると、ラックからポールを手に取った。廊下に出て、歩く真似をしてみる。腕を振ってみる。自然に腕と足が交互に動いたことに満足した男は、ポールをラックに戻した。





そのまま宙を見据えて、翌日曜の予定を思いめぐらす。うまく事が運べば、午前中からだが空くかもしれない。くすっと、声にならない笑いを立てると、裏山に出かけてポールを使ってみようかと夢想する。ワカンと珈琲道具だけを携えて30分もバイクで走れば、そこは美ヶ原である。コースはなだらかで、王ケ鼻下の岩場以外、気をつければアイゼンも要らないだろう。ピッケルも置いて行ける。ひとり、まっしろな雪原を彷徨って、しばらく腕の使い方を馴染ませておこうというのだ。もう一度くすっと笑うと、男は珈琲道具の手入れを始めた。



男がポールの使い方を知らないのには、やむを得ぬ事情があるのだ。話は'80年代後半にさかのぼる。そこはバブル沸騰中の東京。学生街にあふれる揃いのスタジアムジャンパーの若者たち。スタジャンの背中に書かれた「サークル」では、春から秋はテニスに興じ、冬はゲレンデでスキーを楽しむ。「サークル」には、近隣に限らず他大学から大量の女子学生が流入し、春夏秋冬、青春を謳歌しているのだった。



その男は、おとこばかりの探検同好会のようなところに身を置いていた。その同好会のアイデンティティは、藪山秘峰を踏破しては山中に鍋を囲む、という趣旨に貫かれており、メンバーもむさ苦しいこときわまりなかった。ある冬のこと、男も雪山に出かける。マドンナの曲が大音量で流されているスキー場ゲレンデ... その上端から深雪の尾根に向かう山賊のような男たち... その男たちは、カラフルなスキーウエアの群れを、か弱げな女子学生を手取り足取り指導する男子学生たちを、飢えた野犬のような眼で眺めていた。

そのあとの腰までのラッセルでは、ワカンと膝で雪を踏み固め、水平に構えたピッケルで雪を押し崩すことをひらすらに続けた。上体をよろよろと揺らすことはあっても、支えるポールはなかった。同好会では、2本のポールを持つことは禁じられていたのだ。曰く、俺たちは山ヤーであってスキーヤーではない。だからポールではなくピッケルを持つ。若かった男は、このシンプルながら強烈な教条を、受け入れざるを得なかったのである。

嗚呼、なんと長い前置き。つまり、こうした歪んだ劣等感が覆い尽くした暗い青春の辞書に、ポールやストックという文字は、なかったのである。



しかし、その男、おとなである。過去の暗い思い出を振り切って、かっこいい2本のストックを手に入れたのである。悦に入る訳である。面映いが四半世紀近くのときを経て、ようやく胸を張れる時が来たのだ。


    ◆


その日曜日。男は裏山の美ヶ原へと、出かけることができなかった。しかし、せめて身体を動かしておこう... そう考えた男は、松本を離れて中央分水嶺を越え、諏訪湖のほとりに立つ。温泉温水プール【すわっこランド】へ!



湖畔のプールからは、東南東の方角に八ヶ岳の南半分が見える。編笠、権現は遮るものなく、阿弥陀は赤岳に重なる。硫黄岳のなだらかな山頂はよく見えるが、やや離れた天狗は西天狗の白いピークが前山の上に顔を出すだけである。西天狗、なかなか白い。あと数日で、あの場所へ行くのだ、そう思えば勃然とたぎるものがある。男が冬の八ヶ岳を歩いてから20年近くの歳月だけが流れている。

   深い雪に立ち向かって行けるかい? 

   ワカンを履いて脚を上げられるかい? 

   寒くなんかねえよ、あの日と同じように強がれるかい? 

無様な姿をさらして凍え死なないように、プールを何往復もかけて筋肉をほぐす。関節を広げる。疲れてきたら水中を歩きはじめる。


   あ。


水中ウオークで、プールの端で折り返そうとしたところ、動きが止まった。プールのすぐ隣に、巨大なジャグジーがあるのだ。いままで気が付かなかったのが不思議なくらい大きなジャグジー。温水プールとはいえ、たましいまで冷えきった男には冷たい。全身の筋肉を動かしたあとでも冷たい。男は身体を温めようと、プールからジャグジーへ、移る。飛び込む。ざぶんぶくぶく....。毛穴が、全部の毛穴が一瞬に開く。毛穴から侵入した熱が、筋肉の繊維をばらばらにほどいていく。さらには、結合していた神経細胞ネットワークの接点がぜんぶ外されて、やがて、からだのすべての細胞が湯の泡に溶けながら、残った最後のひとつの点になって、やっと声が出る。


くはぁ! 最高。


その男、もうジャグジーから出られない。
その男、雪稜よりも、ジャグジーか! しっかりしろ!

by yabukogi | 2010-02-16 17:26 | 湯けむりのこと


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